フリーマンの昼寝

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2011年07月の日誌


メガソーラー計画 本当にそれで良いの? 2011/07/19 台風の雨

ソフトバンク 孫社長が打ち出したメガソーラー計画、35もの自治体が興味を示しているが、なぜ賛同するのか理由はどういうことなんだろう?皆さん、今回のメガソーラー計画、どう思われますか?どこもかしこも、「民間企業が・・・ソフトバンクが・・・孫正義が・・・」言い出したことは凄いと評判になっていますが、本当にそれで良いんですかねぇ。今こそ、じっくり考えるべきだと思いますよ。今回のこの一件、国民は充分に議論すべきでしょうね。政治や行政、マスコミにに任せるのではなくしっかり判断しないといけないですよ。子どもの代どころか末代まで影響及ぼしかねません。しっかり考えましょう。・・・はっきり言って僕は賛成できません。一件素晴らしい計画のように見えますが、公共性の非常に高い、生活大きく揺るがす商品(電気)をいくら、国民の信頼を得ている会社とは言え、一社の提案に安直に乗るほど危険なことはないのです。確かに、大阪府橋元知事が言うように、競争の原理は大切でしょう。現に、今も電力会社は、東電、関電など以外にもいくつかあります。それと同じレベルで今回のメガソーラー計画が語られているのであれば良いのですが、ちょっと雰囲気違いますよね。孫社長の、抜群のタイミングと語り口調の戦略に、国民、行政ともに乗せられていませんか?。ところで、皆さん本当に、ソフトバンクって信用のおける会社なんでしょうか?問題はありましたけど、心の底は各地の電力会社を信用していませんか?もしそう考える方がいれば、しっかりと考えてほしい。なぜ、各地の電力会社の方を自分は信用しているのかを・・・そして、ソフトバンクは心底信用できないのはなぜなのかを・・・僕は決して、ソフトバンクが嫌いでもないですし、電力会社の肩を持つつもりはありません。ただ危険極まりない行為であると言うことです。答えはあえてここには書きませんが、国民を含め、今回の一件は,もっと議論するべき出来事であるはずです。
追記 もしメガソーラー計画が自分にできるなら、是非やりたい。こんなおいしい国民をコントロールできる事業はないのですから・・・だから危険なのです。

トップランナーフォーラムに参加して 2011/07/15 

トップランナーフォーラムの講師として仙台の友人が登壇した。不謹慎かもしれないがもしこの震災が必然であるならば、今、発災して良かったと思っている。地元建設業者がどんどん倒産しているなかで、もしこの震災が5年後ならば、今回の様な復旧作業はできなかったと断言した。協会に加盟している建設業者がここ5年で約30社減り現在80社。今年も脱退および倒産という声が10社程度聞こえてくるなかで、5年後の発災であれば、組織として動く事の出来る会社が何社残っていたか?協会自体の存続もどうなっていたか?というのだ。それにより、復旧作業は大幅に遅れ、場合によっては子供達にそのツケを残しかねない。実際全国をみても建設業者は激減し協会自体の存続も危ぶまれている。この様な状況のなかで今後、同じ様な災害が起こった時に、緊急出動できる地域建設業がどれだけいるのか。対応出来るのかが大きな不安材料になる。大手ゼネコン達は単体で組織として動く事が可能だ。しかし、緊急時に対応出来るのは、阪神の時も今回も一緒だが大型物件、例えば仙台駅緊急応急処置や阪神の時の阪神高速の解体、各駅舎の復旧などである。大手ゼネコンや、警察、消防、自衛隊が現地に乗り込むためには、その地域を熟知した者の力がなくては全く使い物にならない。今回も、地元建設業者は、発災後約2時間で組織として状況確認をスタートさせ、翌12日から啓開作業に入っている。啓開作業とは道路を緊急的に通行可能にする作業等をいう。今回は津波により道路の位置すらも確認できない様な状況のなかで、地元建設業が威力を発揮した。そしてその後に自衛隊等の公的機関が入り、救助復旧作業がスタートした。今回特記しなければいけないのは発災後2時間で協会組織が動き出したという事だ。発災1週間前に区が策定した具体的な防災計画に乗っ取って訓練をしたからだという。机上の空論ではなく、実際の訓練が今回、皮肉にも建設業者の初動を遅らせる事なく進める事ができたという。私たち奈良県はどうなんだろう?非常に不安を感じる。備えあれば憂いなし。何事にも備えよ常にである。

教育論 No.2 2011/07/11 

子供は生まれた時には白紙の状態で生まれて来る。これはどの様な家庭に生まれたとしても平等に与えられている。誰一人として知識を持って生まれて来る子供はいないのである。その真っ白な子供に日本人として、日本の文化のなかで生きて行く知識をつけるのは間違いなく子供達自信であるが、そのあふれる情報の良し悪しすらわからないのも白紙の子供達である。その様な子供達を自由奔放に伸び伸びという言葉の元、良し悪しを教える事無く育てればどうなるか?答えは歴然!大人になっても物事の判断が付かない大人がそこに一人出来上がってしまうわけだ。結論を申し上げると、子供は物心がつく前まではシッカリとしつけなければならない。赤ちゃんとは白紙で生まれて来た時は動物と同じである。それを人間に仕上げるのは、産まれたと同時に人間としてのしつけが始まるからである。時には叱る事も大事である。そしてシッカリとしつけられた子供は、物心がついて自分で行動し出しても常識を外す事はない(しつける親が常識を知ってるという前提ですけど)。勝手に親のいう事を聞ける子になっている。
逆に自由奔放に育てた子供は、常識、道徳がわからないため人を思いやる事ができず非常識な行動で人に迷惑をかけてしまう。凶悪犯罪の低年齢化はこうやって引き起こされるのだ。そして親は言う「うちの子に限って」と・・・自由奔放という言葉の育児放棄の結末である。
そのしつけの上限が小学校二年生という事なんだ。その時の子供の行動でその子供の人生は決まってしまう。あっ、子供の行動とは、家族以外に対する行動ですからね。どの様に育てられても小学校二年生くらいまでは家族に対しては甘えますから...親に対する判断は全く無意味です。
できてるかどうかの答えは、それから以降自分の子供が答えです。
自分の人生と一緒で、一人の人間(こども)に対する教育はやり直しが聞かないものだからシッカリと責任を持って教育しましょ。だからと言ってびびってはダメ!
できてる親は結果として後ものすごく楽だから!子供はいい意味で親のてからこぼれる事は無く、自分の人生をしっかり見つめ目的をもって生きて行くよ。
自由奔放は物心がつき多感になってから!それまではしっかりとしつけ、しっかりと叱る事が大事。

叱る事と怒る事は全く別!
「叱る」は相手を思い相手の行動を社会常識に合わせる様に促す行為
「怒る」は単なる自分の感情の押し付け
全く違うでしょ。

余談ですが、味覚も小学2年生で確立されるらしいすよ




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教育論 No.1 2011/07/11 猛暑

世の中は凶悪犯罪の低年齢化、親の幼児虐待など昔では考えられない犯罪が非常に多い。なぜなのか?社会が多様化しているなかで一概に一言でいう事はできないが、やはり教育に問題がある。ここでいう教育とは学校教育の事ではなく親の子供に対する教育である。
昔、高校の時の先生が生徒に向かってこんな話をされた。僕が通っていた学校は進学校であったためその辺も含めての事であろうが、その子供の人生は小学校二年生で決まるという。そしてその次は中学二年生
その次は高校二年生というのだ。今になって思うと非常に的を得た考えだなぁと思う。中学二年生と高校二年生は取りも直さず来年進学を迎える。その方向性をシッカリ決めなければならないとしという事である。自分は何になりたいのか。自分の人生の目的は何なのか?を明確にして自分の進めき方向をシッカリと自分で決めなければならない年である。ここで大事なのは、親が決めてはならないという事である。顔を突っ込むなという事ではない。中学生くらいでは社会的知識が少ないのが当たり前であるからそのための補助はしなければならない。ただ、親の思う方向に誘導するような知識を与えてはいけない。そんなアホなとお思いかもしれないが、中学高校は一番多感な時期である。そして一日一日、物理的も精神的にも成長を遂げる。下手な誘導は反発を生む。するべき事は、社会的知識の提供とやりたい事を見つける手助けのみである。一番やってはいけないのは、理由もちゃんと説明する事無く、親がその子の進路を決めてしまう事だ。理由があればまだ良いのだが・・・・
もし目的をシッカリ持てば後はそれに突き進む様に見守るのみである。口も手もあまり出す必要はない。目的を持った人間はそこからどんどん強くなる。道徳的に外れない様にだけ見守っていれば良い。外れそうになった時だけ補正してやれば良い。
 さて、これで中学高校は以上で説明できたと思う。では、小学校二年生で決まるという事はどういう事なのか。これは自分で理解したのは、30歳を超えた充分に大人になり自分に子供ができた時くらいである。今はあまりわからないが、当時は ゆとり教育という言葉からなのか、自由奔放に育てる、叱る事はしない、やりたい様にやらせる。と言った様な事をいう親が大勢を占めていた。僕はそれに変な違和感を感じ、テレビニュースで凶悪犯罪の低年齢化を見ていたのだ。この原因って、社会情勢だけなのか?と疑問を抱き、結論は親の教育にあると考える様になった。

人間の可能性について 2011/07/04 快晴 与那国島より

人間の可能性について
人間はアナログな生き物ではあるが、実はデジタル的な判断の集大成で存在している。どういうこと?と思われるだろう。実は人間は一日に数万回の判断をしている。YesかNoの判断をである。
わかりやすところから説明してみよう。朝起きるに際しても、起きるかどうか?の判断し、顔を洗うかどうか?朝ごはんを食べるかどうか?人間の行動を記しただけでもいくつもの行動を判断している。その行動を細かく分析すると、そこにもYesかNoの判断があるのだ。それを全て数えると一日に数万回の判断をしていることになるそうだ。
人間は昔から、無限の可能性があると言われている。積極的な行動を起こせば、そこには想像をすることもできない世界が待っている。ゆえに何事にも前向きに取り組めと・・・・
しかし選択の集大成が人間の行動であるならば決して無限ではない。ただ、選択した数だけ、人生のゴールがあるということになる。確かに無限と言っていいぐらいの数ではあるが・・・人間には無限の可能性があるとはうまく言ったものだ。
いずれにしても、神経質になる必要はないが、要所要所の判断が、自分の人生を大きく作用し、最終のゴール地点を大きく左右することは間違いない。人生の重みをシッカリと感じながら毎日を生きよう